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17年前、娘が小学校5年生のときだった。玄関に突っ立ったまま「お母さん」と呼び、どうしたのか行ってみると、娘は一匹の子猫を胸に抱いていた。子猫は可愛いというものからほど遠く、目ヤニで両目はふさがれ鼻水で顔中ガビガビになり汚いの一言、11月の寒空の下で捨てられ何日かを生き抜いてきたのだろう。
「このままじゃ死んじゃう」
汚い子猫を胸に抱えてきた娘の気持ちを思うと無下に元の場所に戻せとは言えなかった。
「病院に連れてってみましょう」
車に娘と子猫を乗せ、動物病院に行くことにした。車の中で娘は子猫を抱きながら目ヤニやガビガビになった鼻水を素手で少しづつ取って
「目が少し開いた」
と、病院へ連れて行ってもらえることに安堵した様子だった。
病院では
「もう1日放って置いていたら、死んでいたでしょうね」
と肺炎を起こしかけていたらしく2・3本の注射を打ちながら
「良かったなぁ、おまえさん。いい人に拾われて」
「あ、いえ、飼うとは決めていません」と私が言うと
「これも縁でしょう」と医師が言った。
病院に連れて行くことを決めたときから、そのことは覚悟していた。しかし、夫は何というだろうか。
家に帰り、飼いたいという娘にトイレの始末は自分がすることを約束して
「自分で、お父さんに頼みなさい」と促した。
娘は帰宅した夫に頼むと(夫は以前、犬を飼いたいとお願いしたときには反対したのに)、なぜかすんなりOKしてくれた。それからその子猫は我家の一員となった。
その子猫の名前は「トラミ」で通称「トラ」に決まった。二人の娘たちはやがて「ニャンチー」と呼び、私もいつの間にか「トラニャン」とか「ニャンキチ」君と呼んだりした。夫はずっと「トラ」だった。 娘が大学生になり帰省するのは誰よりもニャンチーに会いたいから・・・と離れても相変わらず可愛がり、社会人になっても電話をよこすたび「ニャンチーは元気?」が第一声だった。
トラの様子が変わってきたのは昨年の暮れ頃からで病院に連れて行くと、血液検査の結果「腎不全」と診断され「歳である」ことも言われた。娘には覚悟をするように伝えた。それから少し元気になったものの、1ヶ月前くらいから急に食欲が落ち嘔吐も頻繁になってきた。死期が近いのを悟って死に場所を探しているのか時々おかしな鳴き方をするようになった。10日前くらいには細かくした生マグロをやっと少し口にしたが、それも受けつけなくなってしまった。昨夜は歩けないのに歩こうとしている。やせ細った体を抱き「ここで死んでいいんだよ」と声をかけ、ずっとトラを胸に抱いていた。本当は娘に抱かれていたかったに違いない。今朝、仕事に行かなければならず、歩けないトラを置いて家を出た。仕事が終わり急いで家に帰ると、トラは死んでいた。猫は飼い主に死ぬ姿を見せないというけれど、たぶん私が仕事で家を出るまで頑張っていたのだろう。体はすっかり硬直し、私が家を出てからすぐ死んだことがうかがえた。
冷たく横たわった体をなでながら「今まで、ありがとう」、それ以外に言葉が見つからなかった。
トラが死んでから3日間は、家に帰ると泣いていました。
17年間、私の傍にいつもいたので娘よりも誰よりも私が大打撃でした。帰るとドアの所で「ニャ~ン」と出迎えてくれるのが当たり前になっていて、帰宅するたび、いまだにトラの姿を探しているような有様です。
おバカな猫でしたが、可愛いヤツでした。